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自称ダンディ文豪(自称)
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太宰治の自伝的小説「津軽」の中に、弘前城についての論証の箇所があったように記憶している。とりたてて優れた所の見当たらない平凡な城である弘前城を天下の名城たらしめているのは、岩木山とその麓に広がる城下の町並みだという内容だったと思う。日本庭園で山や谷など自然の造形物を庭の景観の一部として取り込むことを「借景」というが、確かに天守閣広場から眺める岩木山の姿は弘前城の造形美の一部と言って間違いない。借景はどちらか一つが欠けても成立しない。弘前城と岩木山は相互補完された、互いに欠くべからざる存在なのだと。
二十数年前と言えば、四半世紀も前の話だ。歴史の教科書のような月日が流れた後でも、僕の内部ではこの町で過ごした日々が、煌めくような輝きを持ってそこに存在している。若い頃の事は、過ぎ去ってしまえば誰でも懐かしく美しいものだよ、と誰かが言う。それは確かだろう、でも・・・と、もう一人の僕は反論を試みるけれど、後に言葉が続かない。たぶん僕の持論に勝ち目はない。しかし僕は、自分の内部で輝きを放ち続けるものの正体をつきとめたく悪あがきを続ける。その悪あがきの一つが、数年前につらつらと書き連ねていた「残雪の蛮カラ」だったのかもしれない。今は非公開にしているが、そのうち気が向いたらまた書き始めるのかもしれない。書かないのかもしれない。別段僕は商業的物書きでも何でもないのだから、締め切りも人の批評も売れ行きも気にすることは無い。ただ僕が書きたければ書けば良い。人生と言う名の一片の物語は、作者も読者も僕一人なのだから。 僕たちが青春のひと頃を送った学生寮が、耐震工事を施すことに決まったそうだ。どの程度様変わりをするのか我々に知るすべはないけれど、これで弘前からまた一つ、記憶の中の風景が失われていく事は間違いない。この地に学生寮が建設されたのが1969年(女子寮は1968年)。アポロ11号の月面着陸に世界中が湧きたった年だ。それから43年。考えてみればとっくに建て替えが行われていたとしても不思議はない。大学側からすれば自治寮など眼の上のたんこぶのようなものに違いなかったろうに。それをよくぞ見逃してくれていたものだと、大人になった我々は当時の大学関係者の皆さんの懐の深さと寛容さに思いをはせる。今の学生諸子にとっても、ま新しい寮で生活する方が心地よいに決まっている。その事に異存はないし口を挟む余地もない。僕の思い出の為に、世界は存在しているわけではない。 だから、せめて変わる前に、ひと目見ておきたいと思ったのだ。 降り積もる雪と学生寮の姿を。 ************************************************************************************** BGMはコチラでどうぞ。 【SOMEDAY by 佐野元春】 駅前から学園町行きのバスに乗る。 人の背ほどの高さに道の脇に積み上げられた雪によって狭くなった弘前の町なかを、昔のように古びた弘南バスが、身を捩るようにして進む。対向車と通り過ぎるのもやっとな道幅だし、路面はパリ・ダカールラリーのようにぼこぼこと波打ってるから、気をつけていないと舌を噛んでしまいそうになる。もっとも、パリにもダカールにも行った事が無いのだから、ラリー車の走る悪路がどれほどの物かは知らない。ともかく、バス運転手のラリー並の運転技術のおかげで、僕は無事学生寮に辿り着く事が出来た。 学生寮は、想像していたよりも変わっていなかった。雪灯りのせいで寮内が薄暗く見える。その光景も昔のまま。食堂に土曜日のカレーを食べに寮生が入っていく。その光景も昔と同じだ。ただ一つ、あの頃僕たちを迎えてくれたヒコザとモップは、いまはもういない。犬小屋も綺麗にかたずけられ、彼らがいつも寝転んでいた場所は、いまはもう雪に埋もれてしまっていた。僕は心の中で彼らに手を合わせた。 寮を出て流転に向かう道すがら。この光景は寮生にとっては見慣れた光景である。歩きながらの撮影なものでぶれぶれであるが、写真中央が正当派蛮カラの学ランを纏ったM田氏。さすがに足元は高下駄ではなく、スノトレであった。実は降雪地で高下駄を履くと、下駄の歯に雪が詰まって大変なことになるのである。 「蛮カラ」の事を知らない人に説明しようとすると、僕はいつも絶望的な気持ちになる。そもそも近頃の人々は蛮カラの存在を知らない。また僕たちが経験した、都会ではバブルの狂騒が人々を呑み込みつつある中、津軽の片田舎で生き続けてきた蛮カラの終焉の姿は、それを経験していない人には伝わるべくもない。 やはり報道で見た通り弘前の今年の積雪は大変なもので、三岳公園を横断するのに難儀した。というか、プチ遭難しかけた。学生時代さながらに酔って新雪にダイブしてたら、そのまま雪解けまで発見されずに終わる。思い出の地に来てわざわざフリーズドライになって人生を終わるのは、あまりにも悲惨な人生の終わり方なので、僕は足早に公園を横断した。おかげ様で雪の三岳公園の写真は撮れずじまいだった。 居酒屋「流転」 学生寮出身者のみならず、大学出身者なら誰でも知ってる居酒屋である。我々はここに、本当に数多くのドラマを残してきた。笑いも涙も怒りも恋も、ありとあらゆる感情と胃液をここに吐き出して、僕らは大人になった。 僕らが足しげく通っていた二十数年前には1階2階でそれぞれ酔客を収容し、数多くの伝説的バイト生が駆け回り、朝まで灯りの消える事は無かった。数年前にいったん店を閉め、再開後の現在は店主の直さんと奥様がきりもりしている。僕は数年前から仕事で弘前を訪れるたび流転に立ち寄っていたのであるが今は常連さんが静かに飲む店になっており、二階はほとんど開けていなかった。静かな流転で直さんとあれやこれや昔の思い出話をするのも懐かしかったけれど、そこに寮生たちの姿がない流転は、どこか寂しさを感じさせるものだった。それが、総勢40名の元寮生が、実に久々に流転の2階に集合した。 しっかし、みんな変わんねぇなぁ~!!いや、確かにそれぞれ年はとってる。医者や学校の先生やサラリーマンや主婦や社長や、それぞれの生活に戻ればみなそれなりの仕事をしてるはずなのに、この場に集まるとそんなもの一瞬にして消え失せ、学生の頃この場で酒を飲んでいた時代の距離感に戻っていく。この距離感の収束する感覚は、ある種の快感にも似て心地よい。 しかしながら、ある元女子寮生の御子息が既に男子寮に入寮しているとのことを聞き、時の流れの速さを思い知ることとなる。僕が母上(C浪女子としとこう)に初めて会ったのが、彼女が入学したての頃。で、今目の前にその頃の彼女と同じ年頃の息子さんが並んで座ってると。きっとドラえもんにお願いして机のタイムマシン使わせてもらったなら、きっとこういう感じなんだろうな。 「時代は変わりました。酒量を適量にして、ゆめゆめ喧嘩などせず、記憶をなくさずに、みなで楽しい弘前の、流転の一夜をすごしませう。」 そうメールに書いた幹事K山氏自身が早々と記憶をなくし(ていたらしい)、出身の掛け声をかけまくったおかげで出身の雨あられになってしまった。しかし二十数年と言う月日の重さは、我々の心身よりも専ら脳細胞に重くのしかかっていたらしく、すんなり出来る人はごくわずか。ぐだぐだで杯を重ねるに至るのである。 何度かこのブログにも記事として登場しているA久都氏といえば早々とスリープモードに入られ、やがてフィードバック&フェードアウトしていきました。A久都氏らしいと言えば、あまりにもらしい最後でありました。また、震災後の夏に訪ねたSとーる氏とも久々の再会。それから高校の同級生で、僕が一浪したため先輩後輩の中になるという微妙な関係になったAA氏。彼とはバンドも一緒にやったりしてたね。えらい年下の子と結婚したらしく、幸せ太りでぶくぶくになってました。あと、SYUさんは、想像していた通りの容貌になっていて、思わず笑ってしまいました。弘前までのカウントダウンはなかなかスリリングでしたよ。 あー、もー、書ききれんほどの再会でした。 二十数年ぶりの思い出を語るには、時間があまりにも短く、流転もさすがに今は朝まで開けているわけにはいかず、我々は鍛冶町へと繰り出す事になる。我々の時代には鍛冶町→流転というのが不可逆方程式であったが、こんな所にも時代の流れが作用しているのかもしれないし、してないのかもしれない。鍛冶町は弘前一の繁華街ではあったが、我々の学生時代には少々敷居が高かった。学生飲みは西弘→流転が一般的で、鍛冶町はいわばブルジョア飲みの町であった。教授や卒業した先輩らに連れられて行く事が多く、そんな鍛冶町にタクシーで飲みに行くなんて俺もずいぶん変わったもんよと思いを巡らせつつ、タクシーに同乗した元女子寮生たちの母会話に耳をすませていた。いやー、皆さん、お母さんやってるんですねぇ。くはっ!くはっ!くはっ!←高笑 鍛冶町の居酒屋で2時頃まで、あれやこれやそれやどれと際限なく話していた。驚いたのが、思いのほか女子寮男子寮のカップルが多いと言う事。おそらく女子寮と男子寮が隣り合わせで食堂を一にするという、この神が与えたもうたがごとくの立地条件、および「タイアップ」と称し何かと合同で行事を行おうとする男子寮生の涙ぐましい努力が、かように様々な恋愛ドラマを演出したのであろう。K塚氏の細君を巡る恋愛ドラマをS々木Tる氏と繰り広げられたと言うのは初耳であったが、寮生恋愛ドラマ好きの私(わたくし)が知っていたならもう少し面白い演出を施したことだろう。 さすがに店内に我々の姿しかない状態でそれ以上の居座り行為もできず、我々は店を出た。正直、ものすごく名残惜しかったのだけれど、大人である我々には語りあう時間が残されていない12時前のシンデレラなのだ。あの頃は話たければ流転があった。しかし、そもそも我々には朝まで語りあう体力すらもう残されていなかった。 タクシーに旧姓K村女史とN条氏と乗り込む。K村女史もN条氏も学生時代とちっとも変わっていない。「女子寮前まで、車入れますか?」おそらく寮生を乗せる事に慣れた運転手さんなのだろう。町で飲んで女子寮生をタクシーで送っていく時、タクシーはまず女子寮の玄関に車を乗り入れ、そこで女子を降ろしてから男子寮の玄関に向かう。それが僕ら男子寮生の紳士的振舞(女性がそれを紳士的と感じるか否かは別として)だった。そんな行いも残っているんだなと、僕はなんだか嬉しくなった。 ひっそりと静まり返った寮の前に立つ。 本当に涙が出そうになるほど懐かしい風景だ。 二十数年を経た今でも、寮は僕の帰りを、雪の中で待っていてくれた。 例年よりはるかに積雪は深く、冷え込みはかなり厳しい。にも関わらず、僕は全く寒さを感じない。 これが津軽の冬だ。誰も信じてはくれないけれど、津軽の冬はたしかに温かいのだ。 オレンジ色の街燈の灯りに、音もなく舞う雪がうかぶ。 雪を踏みしめるたび、キュッキュと乾いた音がする。 ひっそりとした静寂が町を支配する。 それが津軽の冬だ。 寮の近くに住んでいるというK村女史をN条と一緒に送ってきて、寮に帰ったのは3時頃だったろうか?その時まで時計を一切見ていなかった事に気付く。今日集まった元寮生の多くはホテルに泊まっていて、10人程度が学生寮の一室に宿泊することにしていた。さすがの僕も疲れていて、娯楽室に入るなり布団に潜り込んだ。 が、異変は間もなくやってきた。 地鳴りのようないびきが、そこかしこから聞こえてきた。水田に囲まれたド田舎で数万匹の蛙が恋の歌を一斉に奏でているような、全部の楽器がコントラバスの交響楽団のような、荘厳このうえないいびきのシンフォニーが奏でられ始めた。いや、さすがにちょっとはうつらうつらしたけど、睡眠が浅くなった時にこの交響組曲は耐えがたく、眠るのを諦め寮内をうろちょろすることにした。 夜明け前の寮内は暖房もなく、冷え冷えかつひっそりしていて、でもそれもまた昔の光景そのままだった。寮祭の準備を朝までやって妙に気分が高揚して眠れず、一人で外を眺めていた光景そのままだった。 おかげで、誰の姿もない寮内を堪能する事ができましたとさ。やがて一人ぼっちを堪能することにも飽きたら、その辺りにいた現役寮生を見つけては、あれやこれや話しかけて時間を潰した。今の学生は変わったと良く言われるが、僕が話した学生は話もしっかりしていて僕たちが学生だったころよりよっぽどたしかな印象を持った。なにより、自分の親ほどの元寮生に対して嫌な顔せず(心の内は知らんが)、話し相手になってくれた。そのコミ力があれば、実社会でも充分やっていけるよ君。 やがて元寮生が三々五々目覚め出した。前出、AA氏は家族をホテルに待たせて寮のコンパに出席していたが、ついつい飲み過ぎ遅くなりすぎてホテルに向かうタクシーの中で「まずいよ~、恐いよ~。ごめんよ~。」と奥様への謝罪を口にしていたという。N条氏は正当派蛮カラの継承者でもあったのだが、眠る時はパジャマに着替えないと眠れないと、どえらい可愛らしい事をのたまっていた。 それから最大の収穫として、M田氏より「地球発22時!」のDVDをダビングしていただく約束が出来た。これは1986年に学生寮の取材と言う事で、我々の学生寮を取材した番組で、ずっとこのビデオを探し求めていた。僕は直接映っていないが、取材に来たレポーターの女性がたいそう可愛かった事だけは鮮明に覚えている。ただ、番組タイトルは「学生寮マル金マルビ」。もちろん我々の学生寮は「マルビ」の極であったのだが。 そんなこんなで寮の玄関で記念撮影をし、僕らは思い出の学生寮を後にした。 ************************************************************************************** 空港へ向かうバスを待つ間、僕は薄暗いバスターミナルの待合室の椅子に腰かけ、「もっと話したかったなぁ。」とか「こんな事、話せば良かったなぁ。」みたいな事をグダグダと思っていた。けれど、これはいつもの調子だ。僕は後悔型の人間で、過ぎてしまった事を後になってからあれこれあれこれと反芻する。あたかも牛が草を消化するため、幾度もいくども反芻するように。「後悔はしない。」なんてかっこのいい事は言えない。いつも後悔ばかりしていて、その後悔が僕の妄想力の根源となっているような気がしないでもないのだが、この日はいつもより後悔の度合いが激しい。 昨日はとても楽しかった。それは間違いないのだが、なんだろう?この落ち込んだ感覚は。僕は自分の心の沈降具合に興味がわいてきて、どうしてここまであれやこれやと後悔しているのだろうと自分を客観的に観察してみる。同じような感覚でいた時があったような気がして、あの時と同じか?とあれこれ状況をつけ合わせてみた。 そして僕はある事に思い至る。 この感情は、大学を卒業し弘前を離れる時の感情とそっくりそのままだと。 寮を弘前を去りがたく、この時よ永遠に続けと思っていた時の心持と実にそっくりだった。 僕は空港バスを待つ待合室で、卒業の時の追体験をしていたのだ。 この町を訪れるだけなら、いつでもできる。 しかし同じ時を過ごした仲間たちと、この町で同じ時間を過ごすことはなかなかできない。 もしかしたら、こういう経験などもうこの先ないのかもしれない。 その想いが、一層僕を立ち去り難くしていた。 きっと 僕にとって弘前という町の借景は 雪と 学生寮の仲間たちの姿なのだろう。
by e_vans
| 2012-02-11 21:42
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